祝祭の中

 新型コロナウイルスの世界的感染により1年延期されていた東京五輪が始まった。

 開会式を前に、その演出を手掛けるメンバーにふさわしくないとされる過去が次々に暴露され、少なくとも3人が辞退や解任に追い込まれた。小山田圭吾氏、のぶみ氏、小林賢太郎氏。原因はいじめだったり、過去のコントの一部にホロコーストを引き合いにした不適切な表現があったりしたというもの。のぶみ氏については絵本の内容そのものが好き嫌いがはっきりと分かれるものだったのだが、具体的に何が辞任理由だったのかよく分からない。

 こうして3人が辞任し、少なくとも小山田氏の制作した楽曲については開会式で使われることはなかったようだ。

 

 俳優のスキャンダルが発覚すると、過去に出演していた作品がその後一切、テレビで放送されなくなったり、映画の公開が見送られたりすることがこれまでもたびたびあった。個人的にその対応を面白くないと思っていた。「もう見られない」「もう聴けない」と言われてしまうと「見たい」「聴きたい」と思うのは人の性だろう。出演作を視聴者の目に触れなくすることが、いったいどんな効果をもたらすというのか。「作品に罪はない」とよく言うが、その通りだと思う。

 だから今回の一連の騒動でも、ノンクレジットで作品だけ表に出すことを望んだ。特定のシチュエーションのために作られた曲や演出というのは、その場で人の目に触れ、耳に触れなければ意味がない。その曲や演出は、永遠に我々から奪われてしまった。これを非常に惜しく思う。

 

 この3人が今後どのようにして業界を生きていくのか、非常に気がかりだ。作品までよく知っているのは小林氏くらいだが、彼のコントはもちろん、パントマイムなどのパフォーマンスや演出の才は類まれなものがあると思う。おそらくほかの2人についても、それぞれにこうした高い評価があるからこそ、ああいった場に抜擢されるのだろう。

 たしかに彼らは過去、許されざる失態を犯したのだろう。ただ、その時点から現在までは20年前後の時間が経過している。「それくらい過去の話だから水に流せ」というのではない。それほどの時間があったにも関わらず、よりによって今回、五輪という世界的な舞台を目の前にして突然はしごを外されるようにツケを払うことになったその顛末が、あまりにも惜しく、無様だし、嘆かわしく、もったいない。

 ただ、時間的な余裕があれば身を清める機会が得られたかというと、もちろんそうではない。彼らは過去の失敗を謝ろうともしていないだろう。「そういう場」がないからだ。仮に過去の言動を悔いていたとしても、その後悔をどのようにして公表し、被害者や世間からの赦しを乞うことができるだろうかと考えるだけで、「そんな場はない」と分かる。

 結論として、彼らが今回、このようなみじめな形でツケを払わされることになった背景には、我々も少なからず関わっているということになる。小山田氏が雑誌だかのインタビューで過去のいじめを武勇伝的に語った時、世間はなぜ彼をしかりつけなかったのか。小林氏が過去のコントで「ユダヤ人大虐殺ごっこ」というセリフを放った時、それを見ていた人々はなぜそれを咎めなかったのか。いずれもその場で諫め、公式に謝罪・撤回する場を与えて入れば、今回のように世界中の衆目が集まる場で叩きのめされるような形で禊とならなくても済んだのではないか。

 もちろん、一度言い放ったことは容易に撤回はできない。でも撤回・謝罪する場が五輪でなくても良かったはずだ。私たちが20年の間に何らかの形でその場を設けていれば、東京五輪という場で、日本人そのものに対する世界からの目が厳しくなることもなかったと思えば、東京五輪の価値を下げたのは私たち日本人全体であったとも言える。

 我々はもっと他人を咎めるべきだし、ただしそれで相手を二度と復帰できない状態にまで追い込むのではなく、復帰しようとする動きには(嫌悪感を示す人がいても全く問題ないが)理解を示すべきだ。そうしなければ、これからも才能のある人々が業界から次々と消えていくだろう。あるいは「今回はたまたま五輪という大舞台だったからこうした対応になった」ということで終わってしまいかねない。

 これは「見て見ぬふりをする」「事を荒立てずにやり過ごす」「寝た子を起こすな」などの建前が先行しがちな日本社会を根本から大きく変える大転換かもしれない。だが五輪という世界最大規模のイベントに大きな泥を塗ったこの恥ずかしい顛末から学びを得るなら、社会を変えるくらいの大きな学びがなければ釣り合わない。

 

 国内の感染者は再び爆発的に増えてきている。選手村や海外の選手からも陽性者が次々に確認されている。貴重な医師は五輪対応に一定の数が割かれ、一般市民向けの医療体制は脆弱になっている。東京五輪は始まったばかりで、今後どのように大会とコロナの状況が推移していくのか分からないが、反対論も根強く、場合によっては中止などもあるのかもしれない。

 そういう意味で大会そのものが「失敗だった」となる可能性もあるが、個人的には無事に大会の日程を終えたとしても、今回の大会を「成功」とはもはや呼びたくはない。開会式を終え、世間は五輪モードを受け入れてしまっている。東京を中心に世界が五輪という非日常にモードチェンジしてしまっている。セレモニー(儀礼)にはそういう効果がある。だから私は開会式を観なかった。

 演出は素晴らしかっただろう。見たこともない技術で度肝を抜かれただろう。気分は高揚し、コロナ禍でいろいろな我慢を強いられた中、久しぶりの祝祭感に浸れただろう。日本勢の活躍が報じられると、やはり「ああ、五輪だな」と感じるし、もう生きているうちに国内で五輪が開かれることなどないだろうことを思えば「楽しまなければ損」という気持ちにもなるだろう。

 でもそうした祝祭感は、「日常」にあったはずの罪や穢れを押し流してしまう。それで本当にいいのか。五輪に絡んで、開会式までに表出した日本社会のさまざまな歪みを、これで忘れてしまっていいのか。いまの空気感は、失敗から得られるはずの学びを薄れさせてしまわないか。今回、恥ずかしい思いをした日本人だからこそ、このまま社会が何も変わらないとしたらそれはとてもまずいことだと感じる。